二俣城は文亀年間、今川氏が遠江攻略の拠点として城館を置いたのが始まりと言われています。
永禄11年(1568)、家康が遠江に侵攻してこれを奪いますが、遠江の平野部と北遠の山間を結ぶ
交通路の要所に位置する「扇の要」をめぐり、以降、武田と激しい攻防が繰り返されました。

元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率いて二俣城を囲みました。武田軍は猛攻を加えますが、
天然の要害に建つ城の守りが固いため、水の手を絶つ作戦に切り替えます。二俣城では天竜川に
井桜を組んで水をくみ上げていることを知った武田軍は上流からいかだを流して井桜を破壊。
攻撃開始から2ヶ月で二俣城は陥落し、信玄は依田信守・信蕃父子を入れて守らせました。

武田VS徳川の争奪戦の舞台となった二俣城では、家康の嫡男信康の自害という出来事もありました。

武田に内通したとして信長に謀反の疑いをかけられ信康は居城である岡崎城を出され、
家康の命により天正7年(1579)9月15日ここ二俣城で自刃ししました。享年21歳。

通称、呼び名 蜷原城
城郭構造 平山城
築城主 不明
築城年 不明
主な改修者

大久保忠世

遺構

石垣、土塁、堀

指定文化財

浜松市指定文化財

費用

なし

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