田峯城 / 愛知県


この記事は2014年5月24日あも様に投稿して頂きました。

田峯城は文明2(1470)年、菅沼定信によって築かれました。当初は今川方に属していましたが、
今川氏親の死後、五代定忠の時に德川(織田)、そして武田氏に帰属。信玄の三河侵攻に従って
戦功を上げますが、天正三年(1575)長篠の合戦で武田軍は大敗。定忠は勝頼を休息させるため
田峯城に案内しますが、留守居である叔父の菅沼定直と家老今泉道善らに入城を拒否されます。
定忠は激怒しながらも勝頼を伴って武節城へ入り、その後、飯田に逃れて1年を過ごしました。

天正四年(1576)7月、定忠は武節城に兵を集めて自身の城である田峯城に夜襲をかけると、
叔父の定直を始め、一族老若男女96人を手当たり次第に惨殺。首謀者とされた家老の今泉道善は
鋸挽きにされ、首は佐久手街道の辻にさらされたそうです。

菅沼家は今川氏の後に三河を支配した徳川家康によって家督と所領安堵された経緯があり、
これに恩義を感じていた叔父の定直や家老の今泉は武田に帰属したことに批判的だったため、
長篠合戦大敗を受け、入城拒否に至ったと言われています。

天正十年(1582)武田家が滅亡すると、菅沼定忠は徳川家康に帰参を申し出るも認められず、
飯田知久平で牧野康成に討ち取られ田峯菅沼宗家は滅びました。


城の概要

通称、呼び名 蛇頭城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 菅沼定信
築城年 文明2年(1470年)
主な改修者

菅沼定信、菅沼定忠

遺構

曲輪、掘

指定文化財

なし


インフォメーション

営業時間

9時から16時

電話番号 0536-64-5505
定休日

12月29日から1月3日まで毎週月曜、祝日の翌日
ただし祝日の翌日が土曜、日曜、祝日の場合は開城



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